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『天地明察』渋川春海しか知らないの?『江戸の理系力』

歴史 歴史-近世

科学技術史の研究者 鈴木一義さんと、専門家も驚くほどの調査力で『天地明察』を書き上げた冲方丁さんの特別対談が載っている『江戸の理系力』。

しかし!江戸の理系科学者を渋川春海だけしか知らないのでは日本人としてもったいない!

天文に測量、写真、植物や医学、ソロバンに発展する和算、電気やからくり人形など、当時の世界最高水準にまで発達した江戸時代の科学技術。読み進めていくと、これら江戸の理系力に現代のアカデミアの世界で日本人が飛躍するヒントを見出せるような気もしてくる。

《目次》

 

上野彦馬(ひこま)の写真器材

誰もが一度は見たであろう坂本龍馬や高杉晋作ら幕末志士たちの肖像写真の多くは、彦馬が長崎に開業した写真館「上野撮影局」で撮影されたものだ。明治10年(1877)には西南戦争の戦場を撮影したことからも、彦馬は日本初の戦場カメラマンとも位置づけられている。 

http://pds.exblog.jp/pds/1/200905/31/32/d0074332_2324139.jpg

http://mitoooomo.me/wp-content/uploads/2015/03/takasugi2.jpg

↑ これらのことですね。

当時、海外の写真技術は、露出に30分以上も要するダゲレオタイプから、数十秒で撮影可能な「湿板写真法」に移行していたそう。彦馬は、日本では入手困難な感光材を独学で生成し、国内での写真技術の普及に貢献した偉大な科学者。彼がいなかったら、我々がこうして幕末の志士の写真を目にすることができなかったのかもしれない。

 

伊能忠敬の測量

第1次測量では、緯度1度が27里余という数値として算出されたが、第3次測量ではより精度を高め、28.2里という数値を得ている。

緯度1度が28.2里ということから、地球の周囲が約4万キロであるという数値まで導き出した伊能忠敬。「大日本遠海実測全図」を文政4年(1821)に完成させた伊能忠敬が、測量士であることは小学校の日本史でも習う常識の1つだろう。

本著では、測量についてかなりの紙面を裂いて細かく踏み込んでいる。彼は導線法(測器を設置し、その地点から測標を見通して測標の方位角と距離を測り、その次に今度は先ほどまでの測標の位置に測器をおいて、新しい測標までを測る)に交会法(多数の地点から測標を見通し、その方位角を求めるもので、その方位線が正しければ、測標の位置を示す一点で交わるはずであり、これを利用して導線法の誤差点検をすること)を組み合わせて日本全土を測量していったそうだ。

途方もない数と距離の測量を正確にやりきることは、論理的には可能だろうがメンタルと体力が普通はそれを許さないだろう。信じたコンセプトに従って、まじめに地道にハードワークを重ねる姿は、現代で言えばiPS細胞を発見した山中先生とダブって見える。

 

華岡青洲の全身麻酔

紀州の華岡青洲が乳がんの摘出手術に成功したのだ。しかも、全身麻酔を用いて・・・。アメリカの歯科医ウィリアム・モートンが全身麻酔による手術に成功するのは42年後のこと。まさに世界初の快挙であった。

世界初の全身麻酔手術が日本で行われたってこと、知ってました?

オランダの医学書から学んで刑死人の臓器観察で作り上げた『解体新書』で有名な杉田玄白と前野良沢は有名なので、医学分野では華岡青洲にスポットを当てたい。

医学会にとって「痛み」は大規模な外科手術を妨げる第一要因。少し想像してください。今すぐ死に至らない乳がんを、死ぬほどの痛みを絶えてまで摘出しようと誰が思うだろうか!麻酔薬の登場前までは、外科手術は膿瘍の切開、外傷の縫合など簡単なものに限られていた。

青洲は20年もの間、麻酔を研究し続けた。人体実験の過程では実の母親を死なせ、妻を失明させた末の成果というから、手放しにほめられたものではない。文化元年(1804)10月13日に、遂に全身麻酔下での乳がん手術を成功させる。彼のもとには膀胱結石、舌がんなど、多くの患者が押し寄せて次々と手術を成功させたのだという。それにしても外科手術にパラダイムシフトを起こした人物が、当時は医学後進国だった日本人だというのは驚きだ。

 

楢林宗建、伊東玄朴と種痘

種痘所・・・伊東玄朴をはじめとする蘭方医師80人が協力して設立。2年後に幕府の直営施設となり、ほどなく「西洋医学所」と名を改める。のちの東京大学医学部の前身。

医学から、もうひとネタ。東京大学医学部の前身は、イギリスのエドワード・ジェンナーが開発した牛痘苗(ワクチン)による天然痘の予防接種普及のための「種痘所」だった。現代につながる歴史を感じさせる事実であり、当時の医療衛生の最重要課題が伝染病であったことがよくわかる。

 

平賀源内の多才さ

さて、源内といえば「エレキテル」である。明和7年(1770)の二度目の長崎遊学の際に手に入れたらしいその器械は壊れていた。当時の日本において電気の知識は皆無に等しかったが、なんと源内はこれを修理・復元してしまった。

源内はエレキテルの他にも、植物や鉱物の研究者としても有名であった。さらに浄瑠璃や小説の作者としても名を残し、現在も鰻を売る際に使われる「土用丑の日」を考案したコピーライター、マーケターでもあったそうだ。江戸時代までの科学者には、洋の東西を問わずマルチな才能を発揮する天才が多い。ガリレオ・ガリレイしかり、レオナルド・ダ・ヴィンチしかり。日本にも源内という天才が江戸時代にいたということだ。