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自決した三島由紀夫だからこそ、語る言葉に強い影響力が宿る

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『若きサムライのために』は、三島由紀夫が雑誌に書いたエッセイの連載を集めた本だ。これに福田赳夫などとの対談も付いている。

初版は昭和44年。三島由紀夫が自殺する昭和45年の前の年にあたる。

つい最近では、自民党が議席の3分の2をとれるかが焦点となった憲法改正に向けた参院選があった。一連の安全保障関連の改正で岸信介の時代や、全共闘への回顧とともに、三島由紀夫の思想が振り返られることが多いように思う。

僕たちが三島由紀夫を語ったり読んだりするとき、彼を「自決した作家」という前提でみる。全ての作品、行動が「死」の前触れであり、「彼の最期に、どうつながっているのか?」を読み解くという見方になる。

ご多分にもれず、このような目線で僕も本著を読んだ。三島由紀夫が、これほど後世に語り継がれるほど影響力があるのは、彼が壮絶な自決を遂げたからだ。そう考えると、彼の一生の閉じ方は最高のものであったのかもしれないし、彼自身はそれを狙っていたようにも思えてくる。

《目次》

 

「生」は「死」に身をすり寄せてこそ証明される

人生というものは、死に身をすり寄せないと、そのほんとうの力も人間の生の粘り強さも、示すことができないという仕組みになっている。ちょうど、ダイヤモンドのかたさをためすためには、合成された硬いルビーとかサファイヤとすり合わせなければ、ダイヤモンドであることが証明されないように、生のかたさをためすには、死のかたさにぶつからなければ証明されないのかもしれない。死によって、たちまち傷ついてしまうような生はただのガラスにすぎないのかもしれない。

三島由紀夫は「生」を「ダイヤモンド」、「死」を「硬いルビーとかサファイア」にみかけたアナロジーで語っている。もしルビーやサファイアで削られるようであれば、それは最も硬いと特長づけられるダイヤモンドとは証明されない。

続けて、ナチス革命は「生の不安を社会不安に投影し、死との接触により生の確かめを無理矢理つくし出し」た、言わば「芸術の政治化」であると語る。

これと比べたら全共闘の東大安田講堂乗っ取りは、「死」のポーズだけであり、イベントが終われば日常生活に帰っていく情けないものだったと批判する。

死を決してこそ、生を示せる。本質をつく考え方だと思うが、同時に三島由紀夫のような人で日本が溢れかえっていたら、それぞれが拠り所とする思想により激烈な行動を起こす危険な社会になりそうだ。彼のような人が国の指導層に多ければ、それは戦争も絶えないだろうとすら感じてしまう。

 

言葉の影響力

そもそも敬老思想は農業社会の特質である。農業技術は経験のみが重みを持ち、天候の変化、農作物の豊作凶作の判断、作付の判断、あらゆることに、いかにも不規則な現象と思われるものが、長い長い年月の累積のうちには、自ずと法則を持っていることがわかってくる。

確かに、職人的というか体育会的な敬老思想は農業社会からくるものかもしれない。いくら頭がキレても、経験が長い人には絶対に敵わないという今でも一部はびこっているナゾの前提は、農耕民族として人間が発展してきた名残りなのだろう。

何だか当たり前のことのようだが、三島由紀夫に書かれると妙に感心してしまう。言葉の影響力というものは不思議だ。

本を読むにしても、こうして「三島由紀夫がこう言っている」などと人に語れるメリットがあるので、新書を読むよりも前時代の思想家や権威の本を選んだ方が読みがいがある。